• vol.1288 ナポレオン1世とリヨンの織物

    2020.4.30

    ◆革命時のリヨン

    ・マリーアントワネットが断頭台につゆと消えたフランス革命(1789年~)から、国内の混乱状態は20年間続きます。 これまでリヨンに14,000台もあった織機は、4年後の1793年には2,000~3,000台まで減少したとされています。(『リヨン織物美術館』(P227)  ) 。 革命の混乱は国中のあらゆる地域、あらゆる分野にダメージを与えたことは確かです。

     

     

    ◆ナポレオンとリヨン復活、そしてアンピール様式

    革命後、リヨンの織物産業やパスマントリーに与えた影響を語るうえで、どうしてもナポレオンの存在は外せません。

    ・「ナポレオン1世の皇帝戴冠(1804年)は、旧時代の華麗さをいち早くわが物とするべく、宮廷という源流に立ち返ることになった。  1811年1月6日の法令によると、彼は大謁見式や公的儀式の日は、宮廷の廷臣たちは皆絹の着用を命じたのである。 彼にとって公式的な名誉を持っているのは、絹と絹製ビロードのみであり、他国で公式的地位にいるフランス人はそれらを着用しなければならなかった。(『リヨン織物美術館』P227)      確かに、ナポレオンが征服した各地に、親族を支配者として配置してましたから、中産階級出身にとってはその威厳を衣装でカバーすることは重要なことだったのかもしれません。

     

    ・彼はまた諸宮殿(チェイルリー、ルーブル、エリゼ、マルメゾンetc.) の壁面を絹あるいはビロードで飾らせたのである。そのための費用は天文学的な数の織物が必要であった。1804年から1813年までに、フォンテーヌブロー宮殿の為に、600万フラン以上が支出された。」(『リヨン織物美術館』 このことが、リヨン織物業界の復活と新たな輝きを与え、大いに貢献することとなるのです。

     

    ・数々あるお城の中で、過去の王がヴェルサイユ宮殿なら、ナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿をを自分の権威の象徴にしようとしていました。 現在、このフォンテーヌブロー宮殿の内部は1980年代より美術館として一般公開され、ナポレオンに関する品々やアンピール様式のインテリアをみることができます。 もちろんこの城は、歴代の王たちも使ってきた城でもあり、さまざまなスタイルのインテリアをも観ることができます。 上述したように彼は重厚な素材(絹、絹ビロード)を好んでいます。 また彼が遠征したエジプトへの興味に加え、古代ギリシャ、ローマ等のモチーフ(月桂樹、雷文、白鳥、鷲、星、蜂等)が沢山使われます。

     

    ↓写真2018年渡仏の際に撮影, 「王座の間」 by Trinity

    ↓写真: フォンテーヌブロー宮殿SNSより

     

     

    ◆現代に残る生地メーカー

    ・革命の混乱で国外に逃れていた職人たちも、徐々に回復するリヨンに戻ってきます。 そのひとりに、カミーユ・ペルノンという人がいます。 彼はジェノバに逃れていましたが、1795年に事業再開のためにリヨンに戻り、1802年のパリ産業博覧会に出品し金賞を受賞します。 そこでナポレオンは、3つの宮殿のために織物制作をために約70万フランを彼に託しています。 3つの宮殿のひとつ、チュイルリー宮殿の玉座の間には、ベルノン氏によって月桂樹で囲まれた皇帝Nの頭文字が、細い金で縁取りされて深紅の縁飾りを制作した。(『リヨン織物美術館』(P228))

    ・ペルノン家は、息子クロードの孫の時代にタシナリ氏とシャルテル氏のふたりに工場を売却しています。 これが現在もリヨンに本社を置くタシナリ&シャルテル社で、現在もシルクを中心にしたファブリックをルリエーヴル社傘下のもと供給し続けていています。 日本での輸入販売は、トミタテキスタイルさんにて取り扱われています。

     

    写真:  Tassinari & Chatel 社HPより

     

     

     

    次回に続く・・・・。

     

     

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